HSCの不登校について、自己の経験を振り返る(小・中学校時代)

小学生 HSP

こんにちは、naocoです。
HSPの私は子供のころはHSC(Highly Sensitive Child)でした。前回は幼稚園時代の
つまづきを書きましたが、小中学校はどんな様子だったのか、振り返ってみたいと思い
ます。(前回の記事はHSCの不登校について、自己の経験を振り返る(幼稚園時代)から)
不登校には人それぞれの理由がありますから、参考になるとは限りませんが、似たよう
な思考を持つHSCの方のヒントになればと思います。

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小学校時代

幼稚園時代、登園にグズり、泣いて拒否する毎日でしたが、二年保育の年長さん途中くら
いから、登園に関してはあまり納得はしていなかったものの、グズることが無くなりやっ
と本当の意味で環境に適応し始めました。
その段階になると、今度は人の何倍もの速さで急速に順応し始め、いつの間にかリーダー
シップを取るようにまでなっていました。自分からぐいぐいとお友達の先頭に立つという
のではなく、お友達に促されてといった感じだったと思います。しかし、せっかく慣れた
と思いきや半年ちょっとで卒園です。
小学校時代はどうなったのでしょうか?

小学校1年生

私は幼稚園、小学校共に公立で、たまたま両校の敷地が隣り合わせになっていました。私
の時代は、今と違ってベビーブームの頃でしたから一学年10クラスほどあったと記憶し
ていますが、入学時のクラス分けで、幸運にも幼稚園時代に特に仲の良かったお友達と多
数同じクラスになりました。
また、区分けのフェンスをのぞくと幼稚園が視界に入ります。あまり環境が変わったとい
う実感がなく、すんなりとスタートを切ることが出来ました。また、ドキドキするような
ゲームや何故こんなことをするのか疑問だったお遊戯なども小学校に上がると当然無くな
ります。自分の机で勉強をする事にホッとしていた記憶があります。授業が楽しくて、通
知表はオール5。また、学級委員にも指名されるなど、周りの大人たちも幼稚園時代の登
園拒否の姿とのギャップに驚いたことと思います。

突然の海外への転校

小学校2年生になった時、晴天の霹靂ともいえる事態が起こりました。父の仕事の都合で
海外転勤することになり、それに伴い転校を余儀なくされたのです。なんとなく頭のセン
サーで「まずいことになった」と感じ取り、周りのお友達が「外国行けていいな」「写真
送って」「お土産忘れないでね」などと浮かれモードでいる中、「日本を離れたくないな
、このままでいさせて欲しい」と真剣に悩んで意気消沈していました。

クラスで“お別れ会”を開いてもらい、皆からたくさんの寄せ書きやプレゼントを頂きま
した。そして最後の別れの挨拶では「私は外国なんかに転校したくありません。」と言い
たい気持ちをぐっとこらえて、「頑張ってきます。また帰ってきたら遊んでください」と
淡々と頭を下げてお別れをしました。
子供ながらに、一人で生活できるわけもなくどうしようもないと理解していたものの、納
得出来ない気持ちが拭えずにいました。

海外への転校

転勤はヨーロッパのとある都市でした。今のようにグローバル化も進んでいませんでした
から、もちろん日本語で日本の教育を受けられる日本語学校などもなく、現地の小学校に
通うことになります。当初は住んでいたマンションの目の前の公立の小学校に通う手筈で
したが、急遽定員オーバーで入学できないと言われてしまいました。同じマンション内に
他企業の日本人家族が住んでいて、同じ年頃の姉妹と仲良くなり、その姉妹の通うスクー
ルバスで1時間ほどかかる私立のイングリッシュスクールに通うことになりました。

日本の小学校で、平仮名、カタカナ、簡単な漢字をやっと覚えたばかりのところでアルフ
ァベットのなんとやらも理解できない状態ですし、もちろん言葉も一切分かりません。
最初の頃はそのお友達の姉妹と一緒に通っていたのですが、彼女たちは間もなく帰国とな
りクラスに日本人一人になってしまい助けてくれる人がいなくってしまいました。言葉も
分からず、実に辛い毎日でした。

しかし、担任は泣く子も黙る厳格なイギリス人教師で、逆に目をかけてもらっていたよう
で、容赦なく宿題も皆と同じように出されます。どんな宿題で、何をするかも実はよく分
からず家に持ち帰っていました。しかしやっていかなければ、厳しく叱られることは分か
っていましたし、親に手伝ってもらっては学校で自分が苦労すると思い、中学生用の英和
辞典を片手に泣く泣く毎日夜中の12時頃まで勉強をする日々でした。

もちろん「行きたくない」と登校は拒否してましたが、じゃあ転校するか?と言われても
、行先はまた理解不能の外国語の学校しかないのです。「仕方がない。ただ、日本に帰り
たい」とそればかり考えていました。言葉が通じることのありがたさが身に染みてわかり
ました。

そのうち、ブラジル人の親友が出来て、徐々に英語を理解できはじめ、いやいやながら帰
国を夢見ながら登校することが出来ました。3年後に帰国が決まった時は、本当に嬉しか
ったです。

物は大切に扱う性格なのですが、帰国する頃には中学校用と高校用の英和辞典2冊がボロ
ボロになっていました。

世界の子供たち

帰国後

日本へ帰国すると、幼稚園時、1年生時、地域のお友達が多数いましたから、当然転入し
たクラスにも見知った顔がたくさんいて、すぐに馴染むことができました。
或いは海外で極限の学校生活を送った為に、日本語さえ通じればなんとかなる、という開
き直った気持ちになれた為、再び常に学級委員などのリーダーシップをとる状況にいました。

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中学時代

中学校も公立で、言ってみれば公立のエスカレーター方式のような状況で、あまり環境の
変化もなく、つまずくこともありませんでした。
環境にさえ適応して無駄な思考を働かせなければ、やるべきことに集中できるHSCです。
中学校時代は“長”と付くものは、ほとんどやったのではないかと思うほど、クラス、部
活動、委員会、行事等、3年間本当に多忙を極める生活を送りました。

高校受験も、自分の希望校の公立の高校に合格し、意気揚々と思いきや、まさか高校生活
に大きな落とし穴があるとは自分でも思ってもみませんでした。

小中学校時代まとめ

小学生の時点で、自分は環境に慣れるまで、とても苦労する人間なんだと自覚していまし
た。ですから7歳で海外への転校について、自身の危機感を察知出来たのだと思います。
しかし、環境の変化に幅が無ければ、余計なことに無駄に頭を悩ませることなく、今ある
事柄に集中し、逆にリーダーシップを取るタイプに変容するのです。
ただ、そのギャップは本人にもとても辛い、如何ともし難い状況なのですが。

私は、転校したことを除けば、公立でありながら幼稚園~中学まで、まるで一貫校のよう
に環境の変化をあまり感じることなく過せた為、つまずきが無かったのかなと自身を分析
します。言ってみればラッキーだったのかなと思っています。ちょっとボタンを掛け違え
ればこの時期も不登校を経験していたかもしれません。
そういう意味では、私の様なタイプは、小学校~大学までエスカレーター方式で一貫教育
をうたう私立学校の様なシステムが向いていたのかもしれないな、と自分では思っています。

HSP
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